善の研究:第三編 善:第七章 倫理学の諸説 その三
善の研究:第三編 善:第七章 倫理学の諸説 その三
他律的倫理学では、上にいったように、どうしても何故に我々は善を為さねばならぬかを説明することができぬ。善は全く無意義の者となるのである。そこで我々は道徳の本を人性の中に求めねばならぬようになってくる。善は如何なる者であるか、何故に善を為さねばならぬかの問題を、人性より説明せねばならぬようになってくる。かくの如き倫理学を自律的倫理学という。これには三種あって、一つは理性を本とする者で合理説または主知説といい、一つは苦楽の感情を本とする者で快楽説といい、また一つは意志の活動を本とする者で活動説という。今先ず合理説より話そう。 合理的若しくは主知的倫理学 dianoetic ethics というのは、道徳上の善悪正邪ということと知識上の真偽ということとを同一視している。物の真相が即ち善である、物の真相を知れば自ら何を為さねばならぬかが明あきらかとなる、我々の義務は幾何学的真理の如く演繹えんえきしうる者であると考えている。それで我々は何故に善を為さねばならぬかといえば、真理なるが故であるというのである。我々人間は理性を具しておって、知識において理に従わねばならぬように、実行においても理に従わねばならぬのである(ちょっと注意しておくが、理という語には哲学上色々の意味があるが、ここに理というのは普通の意味における抽象的概念の関係をいうのである)。この説は一方においてはホッブスなどのように、道徳法は君主の意志に由りて左右し得る随意的の者であるというに反し、道徳法は物の性質であって、永久不変なることを主張し、また一方では、善悪の本を知覚または感情の如き感受性に求むる時は、道徳法の一般性を説明することができず、義務の威厳を滅却し、各人の好尚を以て唯一の標準とせねばならぬようになるのを恐れて、理の一般性に基づいて、道徳法の一般性を説明し義務の威厳を立せんとしたのである。この説は往々前にいった直覚説と混同せらるることが多いが、直覚ということは必ずしも理性の直覚と限るには及ばぬ。この二者は二つに分って考えた方がよいと思う。
余は合理説の最醇なる者はクラークの説であると考える。氏の考に依れば、凡すべて人事界における物の関係は数理の如く明確なる者で、これに由りて自ら物の適当不適当を知ることができるという。たとえば神は我々より無限に優秀なる者であるから、我々はこれに服従せねばならぬとか、他人が己に施ほどこして不正なる事は自分が他人に為しても不正であるというような訳である。氏はまた何故に人間は善を為さねばならぬかを論じて、合理的動物は理に従わざるべからずといっている。時としては、正義に反して働かんとする者は物の性質を変ぜんと欲するが如き者であるとまでにいって、全く「ある」ということと「あらねばならぬ」ということを混同している。
合理説が道徳法の一般性を明にし、義務を厳粛ならしめんとするは可なれども、これを以て道徳の全豹ぜんぴょうを説き得たるものとなすことはできぬ。論者のいうように、我々の行為を指導する道徳法なる者が、形式的理解力によりて先天的に知りうる者であろうか。純粋なる形式的理解力は論理学のいわゆる思想の三法則という如き、単に形式的理解の法則を与うることはできるが、何らの内容を与うることはできぬ。論者は好んで例を幾何学に取るが、幾何学においても、その公理なる者は単に形式的理解力に由りて、明になったのではなく、空間の性質より来るのである。幾何学の演繹的推理は空間の性質についての根本的直覚に、論理法を応用したものである。倫理学においても、已すでに根本原理が明となった上はこれを応用するには、論理の法則に由らねばならぬのであろうが、この原則その者は論理の法則に由って明になったのではない。たとえば汝の隣人を愛せよという道徳法は単に理解力に由りて明であるであろうか。我々に他愛の性質もあれば、また自愛の性質もある。然るに何故にその一が優っていて他が劣っているのであろうか、これを定むる者は理解力ではなくして、我々の感情または欲求である。我々は単に知識上に物の真相を知り得たりとしても、これより何が善であるかを知ることはできぬ。かくあるということより、かくあらねばならぬということを知ることはできぬ。クラークは物の真相より適不適を知ることができるというが、適不適ということは已に純粋なる知識上の判断ではなくして、価値的判断である。何か求むる所の者があって、然る後適不適の判断が起ってくるのである。 次に論者は何故に我々は善を為さねばならぬかということを説明して、理性的動物なるが故に理に従わねばならぬという。理を解する者は知識上において理に従わねばならぬのは当然である。しかし単に論理的判断という者と意志の選択とは別物である。論理の判断は必ずしも意志の原因とはならぬ。意志は感情または衝動より起るもので、単に抽象的論理より起るものではない。己おのれの欲せざる所人に施す勿なかれという格言も、もし同情という動機がなかったならば、我々に対して殆ど無意義である。もし抽象的論理が直ただちに意志の動機となり得るものならば、最も推理に長じた人は即ち最善の人といわねばならぬ。然るに事実は時にこれに反して知ある人よりもかえって無知なる人が一層善人であることは誰も否定することはできない。
曩さきには合理説の代表者としてクラークをあげたが、クラークはこの説の理論的方面の代表者であって、実行的方面を代表する者はいわゆる犬儒学派であろう。この派はソクラテースが善と知とを同一視するに基づき、凡ての情欲快楽を悪となし、これに打克かって純理に従うのを唯一の善となした、而しかもそのいわゆる理なる者は単に情欲に反するのみにて、何らの内容なき消極的の理である。道徳の目的は単に情欲快楽に克ちて精神の自由を保つということのみであった。有名なるディオゲネスの如きがその好模範である。その学派の後またストア学派なる者があって、同一の主義を唱道した。ストア学派に従えば、宇宙は唯一の理に由りて支配せらるる者で、人間の本質もこの理性の外にいでぬ、理に従うのは即ち自然の法則に従うのであって、これが人間において唯一の善である、生命、健康、財産も善ではなく、貧苦、病死も悪ではない、ただ内心の自由と平静とが最上の善であると考えた。その結果犬儒学派と同じく、凡ての情欲を排斥して単に無欲 Apathie たらんことを務むるようになった。エピクテートの如きはその好例である。
右の学派の如く、全然情欲に反対する純理を以て人性の目的となす時には、理論上においても何らの道徳的動機を与うることができぬように、実行上においても何らの積極的善の内容を与うることはできぬ。シニックスやストアがいったように、単に情欲に打克つということが唯一の善と考うるより外はない。しかし我々が情欲に打克たねばならぬというのは、更に何か大なる目的の求むべき者がある故である。単に情欲を制する為に制するのが善であるといえば、これより不合理なることはあるまい。